小泉首相の薄っぺらな頭

靖国参拝小泉純一郎首相の威勢はピークに達した。バカも5年やれば、立派なバカだ。


「靖国問題に関する小泉首相の10日の発言内容」


小泉首相は、靖国をいいように政治利用してきた。独特の政治感覚でこれは自分の政治的な立場を強化するのに役立つと思っているのだろう。「国債発行額の30兆円の枠の公約を守らないことはたいしたことではない」といった小泉が、公約について語っている。これこそが噴飯ものだと思うんだけれども、結局、発言では、公約を守っても守らなくても批判するマスコミに議論をすり替えている。もうここまで、バカだと、マスコミもあきれて、つきあいきれない、と思っていることに小泉は気づいていない。自分は、裸の王様だというのに。


で、小泉は、靖国については、熱く語るのに、国債発行や消費税引き上げの問題には、手を出さない。それは、自分の政治的な立場を弱くすることに独特の政治感覚で気づいているからだ。まあ、それは正しい。バカに数字は扱えない。だから、小泉は、靖国について熱く語る。首相になる前は、靖国なんざ行ったこともない小泉が熱く語る。すげーよ、小泉。ここまで頭が薄っぺらいヤツは、なかなかいないし、割り切れるヤツもなかなかいない。こんなヤツに日本は5年も支配されてきた。


靖国について、私個人の考えをいうならば、靖国神社はだれがどう見ても、宗教的な施設、神社だ。そこに、戦争で死んだ軍人さんがまつられることについては、大変意味がある宗教行為だと思う。戦争で死んだ軍人さんの遺族は、心の平安につなかったはずだと思う。天皇のメモで話題になっているA級戦犯についてもそうだ。宗教行為である限り、A級戦犯靖国にまつるのは、靖国の宗教的な意志の表れだ。天皇も「それが私の心だ」といって、A級戦犯が合祀された後の靖国に参拝しなかったというが、これはこれで、天皇の宗教的な行為で自由だ。天皇に自由な宗教心が認められるかについては、ちょっと議論があるだろうが、ここでは天皇の宗教的な心は認めたいと思う。


しかし、国の税金で給料をもらっている首相以下、閣僚については、靖国参拝は宗教的な行為以上に、政治的な意味を持つ。政治的な意味を持つ以上、慎重に政治家は判断しなければならない。「心の問題」とかいって片付けられるわけではないのだ。政治家の政治的な行為は、日本の国益に直結する。そして、小泉の靖国参拝が日本の国益を増進しているかについては、かなり疑問だ。靖国参拝で小泉が国益を損なっているならば、小泉は政治的な責任をとりなければならない。「心の問題」ではないのだ。


官房長官安倍晋三もそうだ。彼も、大東亜戦争については、いろいろ思うところはあるだろうが、靖国参拝について、結果責任を負わなくてはならない公人である。この時点で、安倍は、首相候補として失格だと思う。安倍を首相候補として担いでいる自民党の国会議員も、また結果責任を負わなくてはならない。この点は、よく覚えておこうと思う。


とにかく、靖国は宗教的な施設だ。宗教法人の宗教的な行為は、憲法で自由が認められている。アメリカが主導して敗戦国の指導者を裁いて作ったA級戦犯を合祀するのは、靖国の自由な宗教行為の範囲のなかにある。しかし、内閣総理大臣以下、現役の閣僚の参拝は、宗教行為よりも、政治的な意味を周りに対して強く持つ。この点において、政治家は、結果責任を負わなくてはならない。よく覚えておこう、靖国に参拝して、将来、国益を棄損するかもしれない連中のツラを。


一般的に戦争責任というが、東条以下、大東亜戦争の指導者は、国民に対して敗戦の責任があったのである。別に戦争一般を起こしたことについて、責任があったわけではない。問題は、負けたことで、国民の生命、財産に大損害を与えたことだ。アメリカは、敗戦国の国民から東条以下、戦争指導者を奪って、一方的に裁いた。それでもって、いまだに、戦争責任、靖国問題が続いている。不幸なことだ。


というわけで、まったく国のろくをはんでいない民間人の私は、自由に靖国に参拝する。敗戦の責任を国民から追求される機会を持たなかった東条以下、戦争の指導者は、ある意味、不幸だったと思う。憐れだと思う。神様になったとしたら、まあまあ反省していい神様になっているかもしれない。そんな感じ。8月15日の敗戦の日は、戦争をうまく指導できなかった憐れなかつての国家指導者を思い起こそう。いずれ小泉もバカ指導者の仲間に入る日がくるかもしれない。たぶん入るはずだ。そのときは、国民が小泉を裁くのだ。ヤツの墓を暴いても、責任を追及するのだ。バカな国家指導の罪は重い。そのあたりの意味を分かっていない小泉。なにをいってもパーだから、議論をすり替える小泉。てめえのことは、絶対に忘れない。本物のクソ野郎だと思う。