新リア王 高村薫

「新リア王」を読んだ。

高村薫がこの作品で描きたかったものは、なんだろうか。

いろんな見方があるだろうが、高村薫がいうところの公共の意識がなくなりつつある「1980年代」というものだと感じた。

1980年以前(そんなにはっきり分けることはできないだろうが)、言葉は、世界全体をとらえようとして苦闘していた。

言葉は、「国家」として一つのまとまりをつけるべく、苦闘していた。

大きくいえば、言葉の機能によって人は、世界を体系づけようとしていたわけだ。

世界は、体系化されることによって、一つの統合された姿をそれなりに見せていたが、一方で、世界を解体することで、自由になろうとする動きも出てきた。

結局、それが、今日的な状況として継続している。世界を統合するのではなく、あらゆる統合化の動きに抗しようという動きが続いている。

余談だが、世界を統合しようという意味で、主要な言葉の担い手であったマスメディアも、個人メディアによってかなり解体されつつある。

結局、世界の解体は、飢えの心配のない、豊かな社会の到来とともに、始まったということだろう。

なるほど、ねえ。

福澤榮は、国家を統べる技術としての政治の役割を信じた。

長男の優は、国家を統べることにもはや意味を見いださなかった。しかし、ほかに意味があることを見いだしたかというと、政治が向かう意味のあるターゲットを見いだしえなかった。そういう意味で、優は、たしかに、ニヒリストであろう。

国家の意味を見いだし得なくなった政治は、ひとりひとりの生活というものに矮小化される。ならば、政治の意味は一人一人の生活闘争の調整役でしかない。

それがまた、いいんだ、という見方もあるし、私もまあ、政治とはそんなもんでいいと思う。

しかし、高村薫にとっては、個人がつたない言葉しか持たなくなった時代にあって、それは危険な兆候なのだ、という。

2006年1月1日の読売新聞の文化面に掲載された高村薫の原稿によると、そういう旨のことが書いてある。「それでも、言葉を探す」と。

難しいね、これは。公共意識がなくなった、つまり自分たちよりも優先する価値観が喪失しつつある時代において、他者と分かち合える価値観を探し続けなくてはならないという作業は、つらい。

それとも、「人がいやがることはやめなさい」とか、「お互いいやがることはしないようにしよう」で、いいんだろうか。しかし、そうやって折り合いをつけていくような気がする。つまらないけど。